バカのための読書術
著者: 小谷野 敦
タイトル: バカのための読書術
このブログを書くようになって、他の人がどういうふうに、どのような本を読んでいるのか、チョット気にするようになりました。
「バカのための読書術」は少し前に買っておいたきり、読んでいなかったのだけれど、今日、自宅~会社の往復の電車の中で読んでみました。
この著者のように、最近では尖がった部類に入る人が書いたものは、好き嫌いは別として、割り合いおもしろい場合が多いと思います。
“読んではいけない本”ブックガイドっていうのが、100ページあたりのところに載っているんだけど、これがまた、なんだか読んでみたくなる本ばかりでした。
「地震」
著者: 和達 清夫
タイトル: 地震
昨日、地震を題材にした小説「M8」について触れたので、その関連ということで・・・
初版発行1933年、その書名もズバリ、「地震」。
私が持っているのは1993年に文庫本で復刊されたもの。中公文庫です。
「数式をいっさい用いないで・・・」と、背表紙に書かれています。
いまでこそ、↑ こういう売りの科学系教養書がたくさん出版されていますが、70年前にすでにあったんですネ。
地震に関する基本を理解するには、現在でも十分耐えられる内容だと思います。
久しぶりに本棚から取り出してパラパラめくってみましたが、地中電流や地磁気、発光現象なんかにも触れていて、チョット驚きです(私はすっかり忘れていました)。
「M8(エムエイト)」
著者: 高嶋 哲夫
タイトル: M8(エムエイト)
東京をマグニチュード8クラスの直下地震が襲う。
その前後の状況を、かつて阪神大震災を経験した5人(若き地震学者、かつて地震学の権威といわれた老学者、政治家とその秘書、自衛隊指揮官)を中心に、東京都知事、消防士やエンジニア達の活躍を絡めて描いています。
帯には、“各紙誌で大反響!”の文字が躍っているのですが、そうだったのでしょうか?だとしたら、書評家達の地震・震災に対する考えには甘い物があるような気がします。
私としては、作中の政治家達も地震学者達もあまりに優秀すぎて、かなり楽観的な話になっているナと感じました。
この小説のように、数値シミュレーション(コンピュータによる解析)によって地震を予知できるようになれば・・・
しかし、私が理解している範囲では、その理想は、はるかかなたです。
作者にそのような意図があるかどうか確かではありませんが、小説という媒体を用いて不特定多数の人たちを啓蒙するのなら、もっと悲観的なケースを想定すべきだと思いました。
また、地震・震災を題材に選んだ作品であるからには、エンターテイメント性と同時に何らかの別の価値を求めてしまいます。 (← これには、私自身の特殊性があるかもしれませんが・・・)
そのような意味で、今ひとつ物足りなかったと言わざるを得ません。
文句ばかり言っているようですが、この作品の価値を認めないわけではありません。
作者は、次のような趣旨のことを書いており、その点は非常に同意することができるからです。
■地震が起きた後の対策に掛かるお金よりも、地震前の対策に掛ける
お金の方がはるかに少なくて済む
■国民は目先の利益には敏感だが、将来の投資には渋い
まったくそのとおりだと思います。↑上に書かれたことを、都会に住む全ての人が自覚すること、これが非常に大切なことだと思います。
大勢の人の自覚が、社会の仕組みを変えることに繋がると思うからです(私も楽観的すぎるか?)。
(追 記)
地震時に人的被害を減少させるための最も重要で効果的な対策は、各住宅の耐震補強と家具の固定です。そして、その対策推進のための仕組みを改めることです。
(追 記 その2)
やはり地震を題材にした小説「震災列島」に対しても、啓蒙的な価値の物足りなさと人間ドラマとしての荒唐無稽さを感じましたが、これも私の職業の特殊性によるものかもしれません。
「古代エジプト人の世界」
著者: 村治 笙子
タイトル: 古代エジプト人の世界―カラー版
ここ2・3年、ヒエログリフ関連の書籍が結構出版されているような気がしていたのですが、この本の「参考文献」を見て確認できました。
2003年、2004年だけでも10冊近くは出ているようです。
ヒエログリフ、流行っているのでしょうか?
私自身、別に、古代エジプト文字が読めるようになりたいなどとは思っていないのですが、昔からなんとなく変な象形文字だナと思っていて、機会があったら(安い本があったら)、見てみたいと思っていました。
で、この本ですが、楽しいです。
ヒエログリフ初心者にも分かるように、説明が簡潔に書かれています。
壁画や、そこに並んで描かれたヒエログリフの写真を眺めているだけでも時間が経ってしまいます。
岩波新書のカラー版は、ハッブル望遠鏡のシリーズといい、良い企画の本が多いです。
第三作の行方
「キス・ミー・ワンス」
トマス・マクスウェル/著、小林宏明/訳、二見文庫
マシンガンの連射音が鳴り響く。木片や漆喰が弾け飛び、銃口からは光と炎がほとばしる。女を庇いながら、頭上を行きかう弾丸の下で、ルー・キャシディは事の始まりを思い返していた・・・
この小説の冒頭は、極限状態に置かれた主人公の回想で始まります。
「1942年、ニューヨーク。ヨーロッパと大西洋では第二次世界大戦の戦火が拡大しつつあった。フットボールの花形選手ルー・キャシディは試合中の怪我がもとで選手生活を断念せざるを得なくなり、妻のカリンもドイツへ帰ったまま消息を絶っていた。そんなルーの前に美貌の歌手が現れ、次第に惹かれていく。だが、彼女は暗黒街のボスの情婦だった・・・。」 (以上、背表紙より引用)
男達は、つばの広いソフト帽を頭にのせ、トレンチコートをはおり、ハヴァナ産の葉巻をくわえ、アルマニャックの入ったグラスを傾け・・・
女達は、マスカラを塗った分厚い付けまつげ、シルクのドレッシング・ガウンを着け、きつくかけすぎたパーマネントの赤い髪、あるいはブロンドの髪をなびかせる・・・
男達の会話は冗談と強がり。女と男の会話は探り合いと騙し合い。そんな会話にも時折ほんの少しの愛情と真実が混入しています。
全編が、こんな感じの場面で構成されています。
どうです。1920年代(禁酒法時代)から1940年代(第二次世界大戦終了くらいまで)の、時間が今とは比較にならないくらいゆっくりと流れていた頃のアメリカの雰囲気を醸し出しているように思えませんか?
私の中では、舞台は違うけど、『カサブランカ』のイメージが浮かび挙がりました。
FBI長官のエドガー・フーヴァー、暗黒街のボスであるラッキー・ルチアーノ、ニューヨーク市警の悪徳警官達。話の本筋には関係ありませんが、ところどころ出てくるこうした人物達も、その雰囲気作りに一役かっています。
当時の実際のアメリカ、ニューヨークの雰囲気がどうだったか、本当のところは知りませんが、ステレオ・タイプ的なイメージはすごく良く出ていて、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』や『ゴッド・ファーザー』などにも通じる雰囲気があり、私には忘れられない作品です。
私は、登場人物達の描写がしっかりとしていて、その中に一人でもいいから共感できる人物の登場する小説が好きです。
しかし、この「キス・ミー・ワンス」に関しては、“作品の持つ雰囲気=ノスタルジー”、にヤラレタのでした。人物描写やストーリー展開は二の次でした。
この作品には続編があります。 同一著者、同一訳者による 「口づけをもう一度」です。出版社は早川書房に変わりました。ハヤカワ・ミステリアス・プレス文庫でした。
ルー・キャシディが、妻カリンと再会する場面から始まります。
「キス・ミー・ワンス」では、僅かではありましたが、カリンとの出会いと結婚、カリンの死亡(そう思われていた)について触れられていました。しかし、カリンのプロフィールなどはストーリーの本筋にはまったく関係ありませんでした。
また、なぜか、「キス・ミー・ワンス」のラストは、“カリンが帰って来る”と、ルーの父親が告げる場面で終わっているのです。
当初、この終わり方に、非常に違和感がありました。しかし考えてみると、続編があるのだナと、最初から単独の作品ではなかったのだナと、思えました。
そして、「口づけをもう一度」のラストでは、またしても続編を暗示させるラストが待ち受けていました。
第1作: Kiss me once 「キス・ミー・ワンス」
第2作: Kiss me twice 「口づけをもう一度」
第3作: Kiss me once again となるはず・・・・・
第2作(1990年10月初版発行)が出てからすでに15年近くが経ちます。この間、少しは調べては見ましたが、第3作の存在をいまだ確認できていません。
(もし、第3作の存在の如何について、ご存知の方がおられましたら、教えていただけないでしょうか)
トマス・マクスウェル/著、小林宏明/訳、二見文庫
マシンガンの連射音が鳴り響く。木片や漆喰が弾け飛び、銃口からは光と炎がほとばしる。女を庇いながら、頭上を行きかう弾丸の下で、ルー・キャシディは事の始まりを思い返していた・・・
この小説の冒頭は、極限状態に置かれた主人公の回想で始まります。
「1942年、ニューヨーク。ヨーロッパと大西洋では第二次世界大戦の戦火が拡大しつつあった。フットボールの花形選手ルー・キャシディは試合中の怪我がもとで選手生活を断念せざるを得なくなり、妻のカリンもドイツへ帰ったまま消息を絶っていた。そんなルーの前に美貌の歌手が現れ、次第に惹かれていく。だが、彼女は暗黒街のボスの情婦だった・・・。」 (以上、背表紙より引用)
男達は、つばの広いソフト帽を頭にのせ、トレンチコートをはおり、ハヴァナ産の葉巻をくわえ、アルマニャックの入ったグラスを傾け・・・
女達は、マスカラを塗った分厚い付けまつげ、シルクのドレッシング・ガウンを着け、きつくかけすぎたパーマネントの赤い髪、あるいはブロンドの髪をなびかせる・・・
男達の会話は冗談と強がり。女と男の会話は探り合いと騙し合い。そんな会話にも時折ほんの少しの愛情と真実が混入しています。
全編が、こんな感じの場面で構成されています。
どうです。1920年代(禁酒法時代)から1940年代(第二次世界大戦終了くらいまで)の、時間が今とは比較にならないくらいゆっくりと流れていた頃のアメリカの雰囲気を醸し出しているように思えませんか?
私の中では、舞台は違うけど、『カサブランカ』のイメージが浮かび挙がりました。
FBI長官のエドガー・フーヴァー、暗黒街のボスであるラッキー・ルチアーノ、ニューヨーク市警の悪徳警官達。話の本筋には関係ありませんが、ところどころ出てくるこうした人物達も、その雰囲気作りに一役かっています。
当時の実際のアメリカ、ニューヨークの雰囲気がどうだったか、本当のところは知りませんが、ステレオ・タイプ的なイメージはすごく良く出ていて、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』や『ゴッド・ファーザー』などにも通じる雰囲気があり、私には忘れられない作品です。
私は、登場人物達の描写がしっかりとしていて、その中に一人でもいいから共感できる人物の登場する小説が好きです。
しかし、この「キス・ミー・ワンス」に関しては、“作品の持つ雰囲気=ノスタルジー”、にヤラレタのでした。人物描写やストーリー展開は二の次でした。
この作品には続編があります。 同一著者、同一訳者による 「口づけをもう一度」です。出版社は早川書房に変わりました。ハヤカワ・ミステリアス・プレス文庫でした。
ルー・キャシディが、妻カリンと再会する場面から始まります。
「キス・ミー・ワンス」では、僅かではありましたが、カリンとの出会いと結婚、カリンの死亡(そう思われていた)について触れられていました。しかし、カリンのプロフィールなどはストーリーの本筋にはまったく関係ありませんでした。
また、なぜか、「キス・ミー・ワンス」のラストは、“カリンが帰って来る”と、ルーの父親が告げる場面で終わっているのです。
当初、この終わり方に、非常に違和感がありました。しかし考えてみると、続編があるのだナと、最初から単独の作品ではなかったのだナと、思えました。
そして、「口づけをもう一度」のラストでは、またしても続編を暗示させるラストが待ち受けていました。
第1作: Kiss me once 「キス・ミー・ワンス」
第2作: Kiss me twice 「口づけをもう一度」
第3作: Kiss me once again となるはず・・・・・
第2作(1990年10月初版発行)が出てからすでに15年近くが経ちます。この間、少しは調べては見ましたが、第3作の存在をいまだ確認できていません。
(もし、第3作の存在の如何について、ご存知の方がおられましたら、教えていただけないでしょうか)
ハードボイルド 一考
レイモンド・チャンドラーに始まるハードボイルド探偵小説。
いつだったか、どこかで読んだのですが(かなりアヤフヤです)、今でこそハードボイルドと分類されている作品を最初に書いたのは、ヘミングウェイだそうです。
しかし、ヘミングウェイの作品には探偵は出てこないので、やはり、“ハードボイルド探偵小説”の創始者はチャンドラーということにしておきます。この評価が一般的でもありますし・・・
さて、そのハードボイルド探偵小説。ミステリー評論家の茶木則雄氏によれば(*)、1970年代から1980年代にかけてネオ・ハードボイルドという作品が多く出版され、読者の支持を得たものの、1990年代に入るとその勢いは止まってしまった、とのことです。ちなみに2/15にこのブログでも取り上げた、ローレンス・ブロックの作品もこのネオ・ハードボイルドの範疇に入ります。
1990年代といえば、日本の世の中が殺伐としてきた時期と重なります。その頃、評価が高まってきた小説があります。
クライム・ノベルとかノワールと呼ばれるものです。
代表的な作家を挙げると、アメリカでは、「ブラックダリア」などのジェイムス・エルロイ、日本では、「不夜城」などの馳星周です。
これらの作家達の作品の特徴は、
・暴力と狂気の世界を書いている
・文体は、短文で構成されている
・非常に渇いた、クールで感傷を交えない筆致である
と云えると思います。
ハードボイルドとノワールとの決定的な違いは、ハードボイルドが非常に“感傷的”であるということだと思います。
主人公である探偵の言動は基本的にクールであり冷徹です。しかし、読者だけに見せる彼らの感情は時に熱く、時にメランコリックです。そういう主人公達の心情的な一面に魅せられ、共感します。 (ノワールには感情移入できる部分がほとんどありません)
私自身は、ノワールもハードボイルドも好きなのですが、それでも一般的にはノワールが流行るよりも、ハードボイルドが流行るほうがいいナと思ってしまいます。
(*)デニス・レヘイン/作、鎌田三平/訳、「闇よ、我が手を取りたまえ」 解説
いつだったか、どこかで読んだのですが(かなりアヤフヤです)、今でこそハードボイルドと分類されている作品を最初に書いたのは、ヘミングウェイだそうです。
しかし、ヘミングウェイの作品には探偵は出てこないので、やはり、“ハードボイルド探偵小説”の創始者はチャンドラーということにしておきます。この評価が一般的でもありますし・・・
さて、そのハードボイルド探偵小説。ミステリー評論家の茶木則雄氏によれば(*)、1970年代から1980年代にかけてネオ・ハードボイルドという作品が多く出版され、読者の支持を得たものの、1990年代に入るとその勢いは止まってしまった、とのことです。ちなみに2/15にこのブログでも取り上げた、ローレンス・ブロックの作品もこのネオ・ハードボイルドの範疇に入ります。
1990年代といえば、日本の世の中が殺伐としてきた時期と重なります。その頃、評価が高まってきた小説があります。
クライム・ノベルとかノワールと呼ばれるものです。
代表的な作家を挙げると、アメリカでは、「ブラックダリア」などのジェイムス・エルロイ、日本では、「不夜城」などの馳星周です。
これらの作家達の作品の特徴は、
・暴力と狂気の世界を書いている
・文体は、短文で構成されている
・非常に渇いた、クールで感傷を交えない筆致である
と云えると思います。
ハードボイルドとノワールとの決定的な違いは、ハードボイルドが非常に“感傷的”であるということだと思います。
主人公である探偵の言動は基本的にクールであり冷徹です。しかし、読者だけに見せる彼らの感情は時に熱く、時にメランコリックです。そういう主人公達の心情的な一面に魅せられ、共感します。 (ノワールには感情移入できる部分がほとんどありません)
私自身は、ノワールもハードボイルドも好きなのですが、それでも一般的にはノワールが流行るよりも、ハードボイルドが流行るほうがいいナと思ってしまいます。
(*)デニス・レヘイン/作、鎌田三平/訳、「闇よ、我が手を取りたまえ」 解説
「愚か者死すべし」
著者: 原 寮
タイトル: 愚か者死すべし
「愚か者死すべし」
原 寮、早川書房
今日は、日本のハードボイルドです。
今現在、各サイトのランキングでも上位にある作品です。
この作者、日本のハード・ボイルド作家ではNo.1だと思います。
ハードボイルドとしてのフォーマットを頑なにこだわり続けながら、しかも謎解きまである。
この作家の作品は全部★★★★★です。
「聖なる酒場の挽歌」
著者: ローレンス ブロック, 田口 俊樹
タイトル: 聖なる酒場の挽歌
二見文庫
アルコール中毒探偵マット・スカダーを主人公とする作品です。
チャンドラーが確立したといわれる? 気高い孤高の私立探偵像とは異なり、自らの弱さを自覚し、時に自責の念に駆られながら事件と対峙していく新しい探偵像を描き出しました。
ハードボイルド小説の異なる流れを作ったといっても良い作品です。
といっても今から20年くらい前の作品です。既に古典の部類になってきたかも?
(今でも続いています。)
心配事が多い人に
著者: 村上 陽一郎
タイトル: 安全と安心の科学
「安全と安心の科学」,集英社新書,村上陽一郎/著
最近、私が携わっている仕事にも役立つかナ?と思って読みましたが・・・役立ちました。かなり。
仕事では、最近、色々な分野で流行っている「リスク評価」、ということをやっています(ほんの一部ですが)。この、“リスク”という概念とか、その周辺の知識について、基礎的なことから学べました。
仕事に役立てるだけでなく、生活者としての視点からも知っておいて良い知識がかなりあると思いました。
■そもそも、“リスク”ってなに?
■リスクを評価するって? リスクを評価すると何か良いことあるの?
■よく、リスク不安っていうけど、それって何?
■専門家の人がいろいろと、数字を並べて「安全です」っていうけど・・・
・・・信用できない(「安心」できない)。 「安全」と「安心」の違いは?
■「安心」を実感できるようになるためには、どうすればよいのか・・・
↑ こんなことが知りたい人にはお勧めです。非常にわかりやすいです。
第三の主人公
ボストンの私立探偵、「パトリック&アンジー」シリーズ。
(↑ 2/11~2/13までの記事をご覧ください)
このシリーズには、やたらと主人公2人の幼なじみや顔見知りが出てきます。サウス・ボストンという、主人公達(作者)が生まれ育った町が舞台となっており、そこで起こる事件は主人公達の日常や身近に溢れている、ということを作者が表したいからなのだと思います。
主人公2人の幼なじみといえば、アンジーの亭主、フィルが登場します。そして、もう1人、強烈な個性を発揮しているレギュラー登場人物がいます。ブッバ・ロゴウスキーです。
パトリック、アンジー、フィル、ブッバの4人は、貧しい白人地域で供に育った、という設定です。
3回にわたって紹介したこのシリーズの記事では、敢えて、ブッバ・ロゴウスキーという登場人物については触れませんでした。
ブッバ・ロゴウスキーについて触れると、私の文章力では、話が発散してしまうと思ったからです。それだけ、この登場人物はブッとんでいます。
ブッバ・ロゴウスキー。職業、武器商人。常習犯罪者。ボストンのアンダーグラウンドでも一目置かれる男。最近では武器の取引は縮小して、IDカードやパスポート、免許証や許可証の偽造商売にも手を広げている。正常とはかけ離れており、あらゆる武器に精通した男。パトリックとアンジーには絶対的な忠誠を誓っている。
この男が、時として、主人公2人の背後を守っているのです。2人に対する脅迫や暴力への防波堤となっています。
パトリック・ケンジー自身は、自分よりも大きな存在に対して軽口を叩き、自己を規制する彼自身のルールの下に行動する主人公であり、間違いなく、フィリップ・マーローの系譜を引き継ぐ探偵であり、また、このシリーズ作品は、パトリック視点の一人称で描かれている、真っ当なハードボイルドだと思います(私は)。
しかし、もしかしたら、熱烈なチャンドリアンからは、ブッバ・ロゴウスキーの存在があるために、このシリーズ作品はハードボイルドとして認められないかもしれません。ハードボイルドの定義の1つである、“孤高の戦士”という枠組みから外れているからです。
フィリップ・マーローが活躍できた時代と、現代ではあまりにも探偵達を取り巻く社会環境や時代背景が異なり過ぎてしまいました。もはや、探偵はバックアップなくして生き残ることができなくなってしまったのです。
エンター・テイメント性と同時に、リアルな現代社会を描こうとしている(と、私には思える)このシリーズ作品にとって、そして、現代の探偵が正義の戦士として活躍するために、ブッバ・ロゴウスキーは欠かせない存在なのです。
(↑ 2/11~2/13までの記事をご覧ください)
このシリーズには、やたらと主人公2人の幼なじみや顔見知りが出てきます。サウス・ボストンという、主人公達(作者)が生まれ育った町が舞台となっており、そこで起こる事件は主人公達の日常や身近に溢れている、ということを作者が表したいからなのだと思います。
主人公2人の幼なじみといえば、アンジーの亭主、フィルが登場します。そして、もう1人、強烈な個性を発揮しているレギュラー登場人物がいます。ブッバ・ロゴウスキーです。
パトリック、アンジー、フィル、ブッバの4人は、貧しい白人地域で供に育った、という設定です。
3回にわたって紹介したこのシリーズの記事では、敢えて、ブッバ・ロゴウスキーという登場人物については触れませんでした。
ブッバ・ロゴウスキーについて触れると、私の文章力では、話が発散してしまうと思ったからです。それだけ、この登場人物はブッとんでいます。
ブッバ・ロゴウスキー。職業、武器商人。常習犯罪者。ボストンのアンダーグラウンドでも一目置かれる男。最近では武器の取引は縮小して、IDカードやパスポート、免許証や許可証の偽造商売にも手を広げている。正常とはかけ離れており、あらゆる武器に精通した男。パトリックとアンジーには絶対的な忠誠を誓っている。
この男が、時として、主人公2人の背後を守っているのです。2人に対する脅迫や暴力への防波堤となっています。
パトリック・ケンジー自身は、自分よりも大きな存在に対して軽口を叩き、自己を規制する彼自身のルールの下に行動する主人公であり、間違いなく、フィリップ・マーローの系譜を引き継ぐ探偵であり、また、このシリーズ作品は、パトリック視点の一人称で描かれている、真っ当なハードボイルドだと思います(私は)。
しかし、もしかしたら、熱烈なチャンドリアンからは、ブッバ・ロゴウスキーの存在があるために、このシリーズ作品はハードボイルドとして認められないかもしれません。ハードボイルドの定義の1つである、“孤高の戦士”という枠組みから外れているからです。
フィリップ・マーローが活躍できた時代と、現代ではあまりにも探偵達を取り巻く社会環境や時代背景が異なり過ぎてしまいました。もはや、探偵はバックアップなくして生き残ることができなくなってしまったのです。
エンター・テイメント性と同時に、リアルな現代社会を描こうとしている(と、私には思える)このシリーズ作品にとって、そして、現代の探偵が正義の戦士として活躍するために、ブッバ・ロゴウスキーは欠かせない存在なのです。