『ぐるりのこと』 | 本だけ読んで暮らせたら

『ぐるりのこと』

『ぐるりのこと』  梨木 香歩/著、 新潮文庫(2007)


思ったこと、感じたこと、考えたことを言葉や文章にするのは、なんと難しいことだろう。

恐らくは、自分の頭の中で渦巻く事柄の数千分の一、数万分の一でさえ、表出させることができない。

脳内で発火したニューロン、シナプスのネットワーク化、これらの働きのうちの殆どが表に出ずに消えてなくなっているに違いない。ホンの僅かの瞬間、生き残ったシナプスのネットワークのごくごく一部・断片だけが、言葉や文章として出てくるのだろう・・・・・私の場合・・・・・何とも、もどかしい限りである。


ところが、梨木さんは、頭の中のことを表に出すのが、実に旨くて巧くて上手い。(さすがプロの作家さんだ。)

些細な日常の風景。旅行先で出会ったヒト。報道された事件。その他もろもろ・・・。梨木さんは、それらについて、些細なことに注視し、真面目に深く考える。考えたこと、思ったことを文章にする。

繊細な感性を持ちながら、それでいて思索に際しての立ち位置が明確で強固なので、彼女の言い分がわかり易く、共感もできる。



さて、この本の中で比較的大きな weightを占めて表現されていたのが“境界”という言葉であった。


個と群

自分と他人

日常と非日常

西欧(キリスト教文化)とイスラーム(ムスリム)

今と昔

連続と断絶

・・・・・・・・


境界・・・、私の場合はどうかな?などと、なんとなく考えてしまう・・・


自分は自分、という立場を前面に出しがちで(というか、自分勝手で)、少々周りと噛み合わなくてもあまり気にしない私。

一方で、会社という組織に属さなければ日々の糧が得られないものだから、組織の都合にも合わせる私。あるいは、自分の意に介さなくても、他人様(世間)との軋轢が面倒なので、手っ取り早く大勢に迎合する私。

このように、通常は、自分(個)と世間(群)との境界を、時と場所によって使い分ける。使い分け自体がいけないことなどとは少しも思っていない。ただ、その使い分け方が私自身の中で一貫しているか? 自分で納得できているのか? そこが問題だ。(他人様にとってはどうでもいいことだが・・・)


梨木本を読んだ後は、少しだけ余計なことを考える・・・




【これまでに読んだ 梨木香歩 作品】

『西の魔女が死んだ』

『からくりからくさ』

『りかさん』

『家守綺譚』

『エンジェル エンジェル エンジェル』

『村田エフェンディ滞土録』
『春になったら苺を摘みに』

『裏庭』


梨木本総括:「スキのある文章・・・」



これで、今のところ、文庫で出ている梨木さんの本は全部読んでしまったようだ。(もし、他にもあるようだったら教えてください。)

次は、「糠床」の話でも読んでみようか???