『科学とオカルト』 | 本だけ読んで暮らせたら

『科学とオカルト』


『科学とオカルト』   池田 清彦/著    講談社学術文庫(2007)



1999年初出の本。以前から読みたかったのだが、最近はなかなかお目にかかれなかった。

それが、やっと文庫化された。



18世紀までは特段いかがわしい物とは考えられていなかったオカルト。ニュートンだって、ケプラーだってオカルト信者だった。

錬金術師として有名なパラケルススだって、医療や化学療法に関して、当時としちゃ珍しく実証主義的な改革運動家だったそうだ。

錬金術師達は経験や実験を重視していた。しかも錬金術には、一般人には判らない難しい理論があった。これらの点で、錬金術は今日の科学と似たようなものであったらしい・・・。

著者は、歴史的にみて、科学はオカルトの嫡子であると云う。

では、科学とオカルトの違いは何か?

著者はこの点を明確にする。それは、客観性再現可能性という公共性を担保しているか否かであると。

この本では、科学を定義つける言葉として、この「公共性」という単語が何度も何度も出てくる。他に、オカルトが大衆化して科学になった、だとか・・・。

(もちろん! “客観性”といっても、完全な客観性などはあり得ないことも説明している・・・)


さて、私なりの理解では、「公共性」とは “オープンである” ということだ。(はたして、この理解でいいのか・・・?)
つまりは、“科学の成り立ちからして、オープンであることが義務付けられている” ということだ。
私が日々の糧を得るために関わっているのは “技術” の末端の部分だが、科学から派生してできた(?)技術もまた、オープンであることが求められるのだろう。(心しておかないと・・・などと思ったりする。)



ところが・・・・、と著者は続ける。

科学は高度化専門化・細分化が進み、専門家以外の人たちには判りにくいものとなってきてしまった。科学の公共性は、判る人だけにとっての公共性になってしまった、と。

おまけに、巨大化しすぎて金も掛かるようになってしまった。さらに、有害な技術も生み出ようになってきた・・・。


科学は、わけの判らないもの、判らないままにタダ信じるべき有り難い御託宣、または社会に害毒をもたらす怪しげなもの・・・・・、んっ!? つまりは、オカルトになってきた?



科学が説明できることと説明できないこと。この説明も頷ける話だった。
科学が説明できること・・・・・繰り返し起こること。

科学が説明できないこと・・・・・たった一度しか起きないこと。

科学は自然の中から、我々が認識できる同一性らしきものを抽出して、その範囲だけで説明できるところを説明する。


著者は、こういった話を展開しつつ、「人生の意味」や「私が存在すること」など、科学で説明できるはずもない、と断言する。

存在するものにいちいち理由などは無い、と言う。

しかし、理由をつけないと納得できない人もいる。


私や俺の存在、個人的な心的体験などは他人とは共有できない。「かけがえのない私」を実感したい。しかし、かけがえのない人などいない。
それでも、共有したいと思う人もいる。実感したい人がいる。


これらの中の少なからぬ人が精神主義的なモノ(=オカルト)に己の夢を託す・・・・・のも不思議ではない、と著者は云う。(私は不思議だが・・・)


著者は、科学を信じるのもオカルトを信じるのも同じこと? と言っているようにも採れる。要は好みの問題だと。



この本を読んで思ったこと・・・・・、
他人との付き合い方、社会の様々なシステムへの関わり方、なかんずく私とは? などなど、とかく人の世は答えの無いこと、答えの出ないことが多い。しかし、世の中に参加するためには、答えが出ないことを答えが出ないまま生きていく覚悟とか気構えも必要である。

私などは根が単純で、しかも、めんどくさがり屋だから、「判らなくてもイイや!」 と、直ぐに思ってしまう。人間なんて大して偉いモンでもないと思っているから、あまり悩むようなこともないし・・・。

ただただ、この著者のように、物事を突き詰めて考えられる人が羨ましい、と思うだけである。