『文章読本』
表紙には、「谷崎潤一郎著 文章読本 完 中央公論社版」 とある。上の写真では帯が邪魔で見えないけど・・・。
この“完”ってどういう意味だ? (ご存知の方いらっしゃいましたら教えてください。)
普段何気なく感じていながら、自分の貧弱な言葉や思考では旨く表すことのできなかったことが、たったの一言で、たったの一文で眼が開ける瞬間、合点が行く瞬間というのがある。そういうのがこの本を読んでいてあった。
この本、いまでは古典の部類に入るのであろうが(“前書き”が昭和九年九月に書かれている)、私には “眼から鱗” の事柄が沢山あった。
例えば・・・、
欧米の言語や中国語に比べて日本語は語彙・言葉の数が少ないといわれるが、その理由について次のように述べられている。
「国語というものは国民性と切っても切れない関係にあるので・・・・・(中略)・・・・・、我等の国民性がおしゃべりでない証拠であります」 (p.47)
「日本人の国民性を考えますと、われわれの国語がおしゃべりに適さないように発達したのも、偶然でない・・・」 (p.49)
また、
「文法的に正確なのが、必ずしも名文ではない。・・・文法に囚われるな。」 (p.61)
「日本語には、西洋語にあるようなむずかしい文法というものはありません」 (p.61)
「日本語のセンテンスは必ずしも主格のあることを必要としない」 (p.62)
などなど、チョットした知識も・・・。
・・・で、私なりに理解したこと・・・、
国民性を反映した日本語を用いて、この言語とそれが表現することとの間にある乖離・隔たりを“含蓄”として、あるいは“品格”として味わい、また書く、ということかな?
(実践しろといわれても難しいけど・・・・。 このあたりはセンスが必要とも云っている。そしてそのセンスは訓練で磨かれるとも云っている。)
実はこの本、カミさんの実家に行ったとき、遊びに来ていたカミさんの甥(大学生)から借りた。
大学生が読むのと、40歳を超えたオッサンが読むのと・・・・、違うんだろうな!?